インキュベーター・インスティテュート齋藤一恵のブログ

2010 年 6 月 のアーカイブ

2010 年 6 月 20 日 日曜日

高野山で宿坊にこもってきました。


南海線の終点 極楽橋駅

バスの中で発見した最新お坊さんシューズ!

休暇をとり、高野山で宿坊にこもってきました。
シンガポールで体験した出来事が、私の人生の価値観だった、「人を信じること、お互いの良いところを尊重しあい、お互いの成長のために働く」という価値観が大間違いだという洗脳をうけるようなショック経験をして。私の心と体が誤作動を起こしました。
分析すると、これまで人を信じて、共に育つための仕事をしていく、というプログラミングがいきなり、人の言葉を信じて動いたおまえが馬鹿だ!というストーリーを経験して、個人的に大きな精神的痛手を負ったわけです。 人によっては、「そんなの忘れたほうがいい」、または、「そういう悪い気の人を寄せ付けたのは自分だろう」、といわれました。反省もありますが、私にとってはどちらにしても心身ともにぼろぼろになっちゃいまして。

一の橋の傍にある宿坊


それで、まずはポジティブでニュートラルな自分を一旦、取り戻すために、日本に帰り、療養しました。両親と温泉で過ごし、新緑の季節の風と匂いを感じ、友人と語らい、その後、高野山の宿坊に独りでこもりました。

不思議なのが、シンガポールではこの事件で眠れなくて、体中に痛みがあり、二日に一度はフルボディマッサージに行き、体の痛みをとろうとしていました。ところが、日本に帰って、4日後にはもうその痛みを感じなくなっていました。面白いですね。やはり、病は気からなんですね。

お部屋の縁側

私が訪れたその宿坊は、真言宗、密教のお寺です。私は、まだ密教の真髄はよくわかっていません。まだ、その勉強は先にとっておこうと思っています。今は、なんだか、そこに近寄ることで、癒しと何か自分に対して、本質を見つめなおすための機会をつくる触媒になっています。

今回、高野山の宿坊に泊まるのは、人生では4回目です。
前回は、シンガポールに移住する前ですから、約7年ぶり。
宿坊では朝のお勤め、高野山の美しい自然と融合したお寺の建築物を見て、午後は、昔からやっていた書道に勤しみました。シンガポールからは、筆だけを持参しまして、宿坊では写経という方法もありましたが、自分に出した課題は、「梵字」への挑戦。
普通の書の技術とはまったく違う、梵書に挑戦しました。
私が男に生まれていたら、たぶん、武道をやっていたと思います。
たまたま、女に生まれて書道をずっと小学1年生から、14年間かかさず毎週、やっていた学生時代、高野山の教書大会に自分の作品だけが高野山に飛んで、大会委員長賞という大きな賞と賞品が自分の元に飛んできたことがありました。

それが、私にとって、高野山と空海さんとの最初のご縁でした。
しかし、学生で書道をやっていた当時は、お手本通りに書く書のスタイルが、あまり好きになれませんでした。 ただ、アートとして表現する行為が好きだったからなのか? 書道だけは長らく続けられたことでした。
いつも、何かお手本とは違う、人まねではない書が書きたい、なにかアート的な書を描いてみたいという意識がどこか自分にはありました。 そして、社会人になり、ビジネスの世界にはいってからは、銀座までの長時間通勤と仕事にのめり込んだ私は、書道とは縁遠い生活になりました。そして、最近、またやりたいなと感じています。

宿坊のお部屋は、美しい庭が目の前にあり、誰に言われることもなく窓を開けて、縁側に座りたくなるお部屋です。静かで美しい緑、鳥の声と空、自分も自然界の一部となっている感覚になります。
それだけで、お金を人から奪うためだけに必死に生きている人間社会の価値観とは全く違う、人として大切なもの、純粋にそこに在る美しいものが強調された世界が見えてきます。

宿坊では、今回は初めて「阿字観」という、禅、瞑想法を体験しました。
そこにあるのは、「阿」という梵字。 それを見つめながら、呼吸法をつかって瞑想することです。 そこで、ふっと思い出したのは、なぜか「スキューバダイビング」笑

海のなかに潜ると、どうしても自分の呼吸の音と水の音しか聞こえなくて、自分の呼吸を意識するのです。 それと同じような感覚がしました。
ああ、だから海の奥深くにダイビングすると、なにもない「空」(そらではなく、くう)のなかに自分の身をおいている感覚になって、いつも癒されるんだな・・・と納得しました。

そして、その密教でいうと、「阿字」は宇宙の根源、大日如来を意味するのですが、その「阿字」を無心に書いてみたいと思いました。そんな場所で、久しぶりに書道に挑みました。

書法がまったく違うのだ。。


が・・・・久しぶりに筆をにぎった私の感覚を戻すには、やはり初日では何も作品らしきものができませんでした。それも、見よう見まねでの梵字。

相当に悩み、どう書けば、こういう曲線になるのか? 部屋で悩みながら、書くこと半日。
晩御飯の時間になっても、なっとくできる文字がなかなか決まらず。
若い僧の方が、晩御飯を部屋に持ってきていただいたときには、部屋中が練習して書いた紙だらけ・・・・・。僧の人も部屋を見て、無言で驚いてました。(^_^.)

どうもしっくりこない・・・

結局、とりあえず自分で納得いける作品というか、書を作って帰りたいという目標が達成できず。 う~~~~ん。結局、一晩延泊しちゃいました。
毎回、高野山に来ると、居心地がよくて予定よりも一日延泊しちゃう齋藤でした。
アジアリゾートもいいですが、日本の目に見える美しさ、見えない美しさ両方を体験できる高野山もいいですよ。

2010 年 6 月 19 日 土曜日

東洋からの経営発想

つい最近、日本に休暇のために帰り、いろいろな地域の人と出会い、お話しました。

そこで、知り、あるマネジメントの本に出会いました。

「東洋からの経営発想」 田口佳史著 悠雲舎

ぜひ、アジア、インド、マレーシア、ベトナム、インドネシアなどのアジアでビジネスをしている方は、相当に本質を考えて、悩んだり、他人から見たら、東洋人の日本人の自分がどうものごとを見るべきか?、なんて考えることがある人は、ぜひ、読んでみてください。

私が一番、感じたのは。
東洋人の価値としての、「勤労観」です。
仕事を通して、自分を磨くという価値観。これは、東洋人や日本人にしかありません。
人生が勤労だけと思う行き過ぎた日本人には、バランスが悪すぎるといえますが。
でもね。これは、日本人のもつ、すごいことなのです。

海外にいて、日本人として、アジア人として、地球に生きる人間として、自分がどうあるべきか?なんてこと、別にそんなこと、考えたことも、感じたことがない人には必要ないですけど・・・

私自身、欧米系のマネジメント理論に学び、もっと日本企業は敵の理論を知り、そのうえで、競争したほうがいい、または、外国人従業員に対して、同じ目的のうえで、欧米系の理論でどう対処、共有するべきか?といつも考えていました。

アジア、東洋の歴史的、精神文化的には、どうしてもアメリカ的な経営手法には、精神文化的に違和感や反論があるところがあります。一方で、アジア人には盲目となっている、マネジメント、経営理論がアメリカの理論体系、基本的にやるべきマネジメント理論と法則が実際にあるし、ある程度、それに学んだほうが、賢いし、それをやるべきだと、といわざるをえません。ある意味、欧米系の人を相手に、戦うならば、相手を知る上では重要な知識となります。

しかし、東洋、アジア人の精神文化の場合、同じような感じ方があるわけで、アジア人同士で、欧米系の理論を振りかざして、相手に攻撃するのは違和感が残ります。

その点では、シンガポールという場所は、ある意味、歴史や文化などは後回しにした特殊な場所なのです。
法律も英国からのコピーで、それを使うのが、東洋人なのです。

しかし、そういう特殊な場所で、ビジネスと表現活動を挑戦している途中で、痛感したことがあります。
なんだか、もっと日本は日本型の良さをさらに知り、それはそれで、維持したほうがいいと思うことや、すばらしい点がたびたびありました。
それは、ほとんどが、その「日本人のあり方」とリンクして、「日本企業のあり方」、その人の生き方、経営者が従業員へ思いを貫いている人の価値観から、そう感じました。

そんなことを感じたりした、海外での人材管理の現場で、変われない悪い弱点としては、
「日本企業の組織心理は、60年前の神風論や、戦争論とあまり変わっていない」と
ある意味、どこかで結論づけた経験が、正直にいうとあります。

とにかく、その人、そのときに何をしたかによってだけ、評価されて、その後のモニタリングや、その後の考えてつくった成果は評価にはいらないのです。

アジア諸国は、いろいろな国による文化と歴史があります。

日本も2600年以上の歴史があり、やはり、目に見えない遺伝子が人々に影響を与えていると感じます。

2600年の歴史では、男尊女卑は2660年の間、続いていた日本であり、いまさら、いきなり男女平等といわれて、精神文化的に無理なのでしょう。

私は、女に生まれてしまったので、現実で主張しても、実はそれを受け入れて生きていくしかありませんね。
男に生まれたほうが、ビジネス社会では差別があるけど、男女比ほどはないので、日本人としては社会活動したいなら、日本人男に生まれたほうがよかったなと「個人的には」思いますね。

東洋的な経営思想を話したかったのに、私自身は、東洋的な価値感により、日本人ビジネス社会では、ディスアドバンテージをもつ存在であるという、どうしようも解決がない立場で、努力を続けるしかないんだな・・・と、10年前からの考えと今もやはり、変わらないのだなと思いました。

だったら、アドバンテージを持つ日本人男は、もっと必死に勉強して、日本を沈没させずに、支えるために努力してほしいと思う。

2010 年 6 月 16 日 水曜日

「ビジネスだから」といって、人として何をしてもいいのか?

あはは。

この題材とおりで。ビジネスとは、社会活動です。 その社会で行動、言動したことはいろいろな人に影響を与えます。

やはり、どうも、私自身は、「ビジネスだから何をしてもいいだろ」という価値観の人とは、共鳴も同情もできませんね。シンガポールで体験し、感じたことを伝えます。

異文化のある世界の地球に生きている人間だからこそ、その人を尊重し、他者、他社の良いところを尊重して世界のなかで共存していきたいと信じていた価値観とは、まったく違う人とシンガポールで、「ビジネスだから」という言葉ひとつで、自分の不正なる行動、平気で嘘をついて周囲の人に迷惑をかけておきながら、最後は全部、自分を正当化するために発狂して、こちらを怒り散らしている、そういう日本人に出会いました。
(超びっくりしたぁ・・・・)

海外のシンガポールという国へ、乗り込んで会社を立ち上げて、それから6年間、異文化を尊重しながら、サバイバルしてきましたが。

このグローバル社会で他人に何の意味もつくれず、人間社会のための大きな意味も考えない、自分個人の優越感とお金のためだけに人からお金を奪うことがビジネスだと思い込んでいる人に出会いました。
平気で嘘をついたり、自分にとって都合の悪い人の悪口をでっちあげて、あちこちに話してうわさをつくるような暇人の人、そして、それを見て見ぬふりして、何とも思わない人や、このシンガポールに疑問がわきました。

この「問い」について、シンガポール政府のEDBの人に聞いてみたいと思います。
シンガポールという国は、商売人には、人間的かつ、ビジネス倫理がなくても歓迎できるのか? 倫理なくてもシンガポールでは利益さえあげて、お金をたくさん持つ人になれば、ビジネスでは、自分は人間としていけていると思わせているのではないか?
そんな大人ばかりを集めた社会で育つ子供たちは、もちろん、そうなるけど・・・。

自己利益のために人に虚言をはいて欺き、自己利益のために行動して、人から搾取したり、利益を横取りすることが正しいがビジネスの道ならば、この人間経済活動世界は地獄ですね。その地獄世界を啓蒙し、それを願っているような人とはどうしても価値観の共有も同意もできません。それを自分の子供にその行為を見せて、同じような大人になれと堂々といえるのでしょうか? ま、そういう大人も世界の資本主義者には沢山いますけど。。

その代わり、その自分のやり方、生き様を人や社会に包み隠さずに公開できるのでしょうか? 

で、だいたい、そういう人は、隠れ蓑的にボランティアや教会で活動することで、その人をよく知らない人に対して、私は善人です!というPRを普段から欠かさずしているようです。
そもそも、そういう世界平和や宗教を信じるならば、別に自宅と自己人生と周囲の人に影響を与えればいいのに、なぜか、家族にはそういうことをしないで、教会で沢山の人の前で「私は教会で無報酬で人々と神へ貢献しています」という、パフォーマンスを欠かさないのだ。

「ビジネスだから何をしてもいい」と平気でやる人は、そのプロセスをぜひ、それを公開してほしいです。それが成功であり、それが正しいと信じて、このように人から搾取してビジネスは成功できる本を正直に事実を書いてほしいですね。
しかし、なぜか、そういう人たちは、いつも一般的に受け入れられることしか、
表現しないのです。なんで?自分でそれが間違いだとわかっているということでしょうか?

その場合、嘘をつかずに、子供たちや、誠実に謙虚に生きている人たちの社会には近づかないで、同じような価値観の人のコミュニティだけで奮闘、ご活躍していただきたいと思います。
それのほうが、そのコミュニティでたくさんの賞賛と評価を得られることは確実です。
無理して、価値観の違う、庶民と同じ顔をしないでも、もっと賞賛されるはずです。

平気で嘘をつき、自己利益にもっていくことが、ビジネスでは正しいという価値観ならば、そういうタイプのコミュニティでチャレンジして、同じ価値観の人とフェアにやっていただきたい。嘘などつけない善民を相手に、嘘をつき、人々を惑わせるようなことをして、人を裏切り続けて、人を信用させる言葉をはき、相手のもっているものを搾取して、新しい顧客を餌食にするのは、人間社会にとって邪悪であるということに気づいてほしいですね。
でも、こんなところのブログで話しても、人を変えるのは無理だな。笑

人の心には、誰にも闇も善の心もあります。でも、闇の邪悪を実際にフルに使うのは、自分の人生を邪悪な色に染めることになるわけで。 でも、そういう人は、実は邪悪なことをしないと、自分が損をするという経験を人生でされていることが多いのだろう。まさにその人の人生経験による学習。 たまたま、その人の人生でであった人々があまりにも、お金と自己利益に走る人が上司だったり、親だったりするわけです。

そこからは、普段はまずは世間から見える、見た目だけを、人からよく思われる見た目に努力を重ねます。しかし、その見た目の体を動かしているエンジンの精神は、もう善的な心理には戻れません。 それは、人のいいといわれる人たちや、善を信じるそういう人たちが馬鹿だという絶対的な評価と、そう信じて生きているからです。

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